8湯長谷藩内藤家の誕生により“いわき”内藤家のブランド化
 磐城平藩主内藤忠興候は、領地内の新田(新開発地)のみの土地を、次男政亮候のために、幕府老中に懇願のすえの十数年ののちの寛文10年(1670)に許され、ここに湯長谷藩内藤家が誕生しました。
 また、勿来方部には窪田藩土方家があり内藤娘婿2代ですので、泉を入れ、内藤4家となり、まさにいわきは内藤家ブランド化したわけであります。
 湯長谷藩は小藩が所以か、13代続く藩主にあって、養子を7代も迎えるなど、存続への執念がみられます。
 藩主では初代の政亮候が「うまれつき悠にして行跡よし、家臣をたすけ育て」と幕府にいわしめた人物であり、また属する村は、常磐地区を中心に、白水、高野、江名周辺や豊間、玉川地区の大原、渡辺の釜戸などがあり、明治に一躍脚光を浴びる“石炭”を生産する白水の存在が、近代いわきの進展に大きくかかわってまいります。
「待てば回路の日和あり」かな、そんな言葉ではすまされないのでは?

湯長谷城図
Copyright(C) 2008 IWAKI-ONAHAMA.COM All Rights Reserved